歴史のモザイク!サン・ジュスト大聖堂。その1、導入編と正面壁(ファサード)
2019年 02月 16日
いよいよ、去年書いた「ミラマーレ城」の記事に続き、トリエステのもう一つの観光名所「サン・ジュスト大聖堂(Cattedrale di San Giusto)」について書いて行こうと思います。
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トリエステの守護聖人である聖ジュストの名を冠するこちらの聖堂は、トリエステ人の心の拠り所となっています。中心街からは海を背にして進み、同名の「サン・ジュストの丘」を登りきったところにあります(徒歩だと上り坂15~20分くらい、バスはミニバス24番)。こちらが聖堂の正面の壁ですが、なんだかゴチャゴチャした変な形じゃありませんか?鐘楼なんて、壁に埋まりこんじゃってるし・・・。それもそのはず、こちらのサン・ジュスト大聖堂は、いくつもの時代に跨る建築物が積み重なってできたものなのです。大まかに、古い順に次のようにまとめることができます。
A 紀元1世紀中盤のローマ神殿と、その飾り門(Propileo)。
B 5世紀ごろにAの跡地に建造された、初期キリスト教の聖堂。
C 9世紀に建造された聖ジュストの小教会。位置はBの少し右(南)、重なる部分もあるのでBはもうなかったはず。
D 11世紀に建造された聖母マリアに捧げられた教会。Bと重なる位置だが、やや小さい。
F 1300年代初頭から終盤にかけてCとDが融合させられ、現在の形となる。
今回は中には入らず、正面の壁(ファサード)に注目してみましょう。壁自体も鐘楼も最後に既存の二つの教会が融合したときに作られたので、1300年代のものです。まず目をひくのがこちらのバラ窓、2重の縁に12本と24本の柱が並ぶ、幾何学模様が素晴らしい。よく見ると、全てのアーチには葉っぱのような飾りもつけられています。ここまで大規模のゴシック構造の窓は、イタリア全土で見ても非常に珍しいものだそうで。 バラ窓から左手を見ると、鐘楼にある聖ジュストの像と目が合います。こちらも1300年代の作、殉教のシンボルであるシュロの枝と、トリエステの町の模型を抱えています。 この像の後ろの、鐘楼に埋まりこんだ白い部分は、ローマ神殿(上記の分類A)の飾りを再利用したものです。武器のモチーフが多いことなどから、おそらく紀元1世紀のローマの将軍によって建てられた神殿だったのではと言われています。 鐘楼と教会が合わさるところにも、オリジナル(紀元1世紀)の柱を見ることができます。この他、鐘楼に入ると現在はお土産屋さんになっているのですが、その中にも古代の柱が残っています。 こちらが、当時の建物の想像図。向かって左のでっぱりが、現在の鐘楼に組み込まれている部分です。 大聖堂の正面入り口は、もともと古代ローマのBarbia家の肖像が刻まれたお墓のモニュメントでした。それを持ってきて、半分に切って(真ん中の部分はその際に壊して)、入り口の柱として使用しているのです。
しかも向かって右下の像(Tullia Secundaさん、女性です)には勝手に光輪を付けたしと槍を持たせて、聖セルジョにしちゃったという罰当たり度。 正面に3つ並ぶブロンズの胸像は、左から法王ピオ2世(1463年、ヴェネツィアの侵略からトリエステを守った)、Andrea Rapicio(1567年から1573年までトリエステの大司教)、Rinaldo Scarlichio(聖ジュストの遺骨を発見した神父)のもので、1862年製。 他に正面で面白いのが、1813年に聖堂と鐘楼と占拠していたナポレオン軍へ攻撃したオーストリア・イギリス同盟軍の砲撃の大砲の玉が壁に埋まっていることです。次の写真の中央の黒い点なんですが、分かるかな? ほかにも、もう一つ右の上の方に埋まっています。ポロっと落ちたりしないんでしょうね。笑。
という訳で正面だけで古代から近代まで様々な要素が混ざっているのがお分かりいただけたかと思います。次回からは中に入って、色々な時代の痕跡をさがしていきますので、こうご期待!
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by mitsugu-ts
| 2019-02-16 21:54
| 続・トリエステの歩き方
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